献身の義務
何百年もの間、救世主の来るのを待ち望んでいながら、救世主が実際に地上にいらっしゃった時には、その方のお招きと数々の奇跡を逃してしまった民族が、歴史上存在します。イエス様を受け入れた人びとが招待されている天の晩餐について、聖書は次のように述べています。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ 14:15)。神様の晩餐に招かれるには、主への本当の献身が求められます。しかし、この世のことに気を取られると、多くの言い逃れとともに、せっかくの機会を奪ってしまいます。「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」 (ルカ 14:18-20)。主を何事においても最優先するいう献身的態度が身についていなければ、宗派に関係なく、私たちには天の晩餐への出席は保証されていません。神様の意に適った適当な人物がいない時には、天の晩餐には、わたしたちの目には一見すると相応しくないと思える人びとが招かれることになっています。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」(ルカ 14:21)。パウロは、天の晩餐に自分は招かれていると考える人は、主を何事においても最優先するという態度を身につけるよう訴えています。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」 (エフェソ 4:1)。
天のお父様、あなたの王国での晩餐に招待してくださりありがとうございます。聖霊様が、私がいつもあなたを最優先にできるようにお力を下さいますように。主イエスのみ名において、アーメン。
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