悲しみ嘆いている人は幸いです。そういう人は慰められるからです。マタイ5:4

欠如も祝福の一つ

わたしたちは、自然と、必要の全てが満たされていることが祝福だと考えます。しかし、それは正しくありません。知識や健康、富に欠けることが祝福です。望むものすべてが手に入るのであれば、自分の必要を神様に伝え、与えて頂くという特権を失うことになります。ソロモンは知恵に欠けていました。そこで、その必要性を神の前に持って行ったとき、豊かな知恵の恵みを受けたのです。わたしたちの側にある欠如が、神様との謁見の場となります。だから、欠けていることを喜ばなければなりません。多くの癒しや奇跡を起こされたイエス様が、それらの癒しや奇跡を実行なさったのは、もう主であるイエス様によってでしか満たされない真の欠乏があったときです。それらは、数千人に食べ物を与えることであったり、カナの婚礼でのワインであったり、通りすがりの盲人の癒しであったりです。主はおっしゃいました、悲しみ嘆いている人は幸いです。そういう人は慰められるからです。」(マタイ 5:4)  他の人たちにではなく、悲しみ嘆いている人に主の慰めが保障されていることを信じましょう。主の癒しを受け取る番が、わたしたちに回ってくるのを待ちましょう。それが訪れると、私たちの欠乏は直ぐに取り去られ、主の祝福で満たされるからです。

 

天のお父様、悲しむわたしの慰めとなってくださりありがとうございます。欠乏している状態が祝福であることを理解できるよう、精霊様が教えてくださいますように。イエス様のもっとも偉大なみ名によって、アーメン。