信頼と隠れ家
神を信じることは、決してありふれたことではありません。神以外にすがる人がいない者にとっては、容易なことです。わたしたちは、子どもたちがまだ幼年のうちから、間接的に子どもに説きこんでいます。自分の力で何でも達成しなくてはならず、そのために一生懸命勉強しなくてはならないこと。進学について子どもを説得する前に、どのような職に就くことが有利かなど、親はいろいろと下調べをします。大学を卒業してすぐに、高い給料の仕事を手に入れることができ、良い将来を勝ち取ることができるようになるためです。教会に行くこと、聖書を読むこと、祈りの方法を習得すること、信仰を養うこと―これらは二の次です。なんという自己中心(EGO)でしょうか。自己中心とは、まさに神を二の次にすること(edging God out)を指します。神様は、そのような高ぶる者たちに、ご自分が誰であるかを示されます。そして、そのような傲慢な者が学ぶべき教訓は、主が、愛する僕(しもべ)モーセを通して、お与えになった十戒です。
『しかし、主を信じていなければ、どうして主に、「救ってください」と求めることができるでしょうか。また、主イエスのことを一度も聞いたことがなければ、どうしてそのお方を信じることができるでしょうか。だれかが教えてくれなければ、どうしてそのお方のことを聞けるでしょうか。また、神に遣わされなければ、どうして人々のところへ出かけて教えることができるでしょうか。。。。しかし、福音(キリストによる救いの知らせ)を耳にした人がみな、喜んで受け入れたわけではありません。預言者イザヤが、「主よ。彼らに語った時、だれが私のことばを信じましたか」(イザヤ53・1)と言っているとおりです。 信仰は、キリストについてのことばに耳を傾けることから始まるのです。』(ローマ 10:14-17)
重要な役職に就いている聖職者たちは、すべての事を完璧に行うことに大忙しで、一番大切な神のみことばを人びとに授ける任務を怠っています。現に、これはは彼らにとって優先事項ではありません。教会という名でよばれる組織の最高位に座す者たちの、毎日のスケジュールを見てみれば、彼らが優先する事柄が、みことばを授けることに以外にあることが明らかです。敵よりも、彼らのような失格した指導者たちによって、教会は害されています。大きな学位を持たず、教会を去った男、または他の宗派に属する者が、真のみことばへの愛から、いのちを惜しまず異教徒の中に部屋を借り、住み、多くの人を短期間で回心させています。その一方で、裕福で「高貴」で莫大な規模の組織を持つ教会は、信徒の数を増やすことができないのみでなく、信徒や、その空の儀礼の参列者を急激に失っています。様々なプロジェクトの企画に忙しく、説教の準備を真剣にしない、組織に縛られた聖職者よりも、神様は、ご自分のみに信頼を置く個人を喜んでくださいます。そして、そのような者を祝福しようとおっしゃいます。
一人ぼっちの羊飼いが、神をこころから信頼し、石と投石器を手にゴリアテとペリシテ陣営に襲い掛かりました。主は、この少年のような者を溺愛されます。それ故に、主はサウルを王位から外し、ダビデをイスラエルの王とされました。わたしたちの主がおっしゃった、次の言葉を忘れてはなりません。「神はすぐにも答えてくださるのです。ただ問題は、メシヤのわたしが帰って来る時、いったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているかです。」(ルカ 18:8)ダビデは、自分の罪深さと失敗に関わらず、完全な信頼のこころで歌いました。「主よ。あなたは私の隠れ場です。私が決して恥を見ないよう、お守りください。」 (詩編 71:1) 私たちは、主を信じ、主を隠れ家とするための必死の努力をしましょう。そうすることで、わたしたちは辱められることも混乱に陥るようなこともなくなるからです。
天のお父様、賜物としてわたしに信仰を授けてくださり感謝いたします。聖霊様が天から朝露を注いでくださり、空の鳥がやってきて居場所を得ることができるまでに、養ってくださいますように。イエス様のもっとも生きたお名前において、アーメン。