全ては選択によります
ナホム書 1:2-8
ニネベに対する主の怒り
2 神は、ねたむほどにご自分の民を愛している。
だから、その民を痛めつける者たちに復讐する。
その民の敵をすさまじい勢いで滅ぼす。
3 神は怒るのに遅いが、いったん怒ると、
その力は信じられないほどで、簡単には赦さない。
その力を恐ろしい台風や暴風雨の中に示し、
渦まく雲も、
神の足の下でかき立てられる砂ぼこりのようなものだ。
4 命じると、海も川も乾いた砂地となる。
バシャンとカルメルの青々とした草はしおれ、
レバノンの緑の森も枯れはてる。
5 神の前に出ると、山々は震え、丘は溶ける。
大地は崩れ、その住民は滅ぼされる。
6 だれが、怒りに燃える神の前に立てるだろう。
神の怒りは火のようで、
山々はその怒りの前に崩れ落ちる。
7 主はいつくしみ深い方、
苦難に会うとき、身を寄せるべき場所だ。
主は、ご自分に信頼する者をすべて知っている。
8 しかし、敵はあふれみなぎる洪水で一掃し、
一晩中追いかける。
人間に与えられている一番の賜物は選択する能力です。この能力が男を男とし、女を女とし、自分を成人した大人だと呼ぶわたしたちは、自分が選択したことの責任を負わなくてはなりません。選択の責任を負わないのであれば、年齢が達していないので、自由気ままな選択をしたことを問われない、無実な子供たちと同じ分類に属することになります。子どもたちの選択ときたら、瞬間瞬間で変わるので、わたしたちは彼らの無知と涙、笑顔に常に笑わされます。選択の結果責任を負わなくてもよいもう一つのグループは、何らかの理由から理解能力に駆け、ケアを受けているか見捨てられている人たちで、その人たちの行動は背に金を問われません。彼らは、市民社会から可哀そうだと考えられています。愛に満ちた神様は、わたしたちの前に選択肢を提示されるのみならず、わたしたちがいつも良いものと神を選ぶという正しい選択をすると、御手から溢れ出る祝福でもって、わたしたちを満たして下さいます
申命記 30:15-20
「 いいですか、これは生きるか死ぬかの問題です。主に従って生きるか、従わないで死ぬかの、どちらかしかありません。 16 私は今日、主を愛し、その道に従い、律法を守るようにと命じました。そのとおりにすれば生きることができます。主はあなたと、もうすぐあなたのものになる地とを祝福し、大きな国民としてくださるでしょう。 17 しかし、心が離れ、その教えに耳も傾けず、外国の神々を拝んだりすれば、 18 今はっきり断言しますが、必ず滅びます。あなたのものになる地で、いつまでも幸せに生きることはできません。 19 さあ、天と地が証人です。どちらを選びますか。生きることですか、それとも死ぬことですか。祝福ですか、のろいですか。もちろん、あなたのためにも子孫のためにも、生きるほうを選ぶべきです。 20 主はあなたのいのちです。あなたの神、主を愛し、信頼し、ご命令に従いなさい。そうすれば、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地で平安に生きられます。」
わたしたちが心から神様と御国を選ぶとき、主がお望みの形で、主が適当とお考えの時に、わたしたちの人生は豊かさと祝福で満たされます。それまでは、わたしたちは信仰によって主を信頼し生きていくのです。というのも、わたしたちが使える神様は、知識や金や権力や影響力や他のいかなる地上の資源や権威でなく、つねに主を頼りとしている最愛の者たちを守ってくださるからです。ちょうど、旧約と新約の両方の時代を生きた聖人たちの人生において、主がなさったようにです。御子の決して朽ちることのないみことばに縋り、わたしたちは生きるのです。
「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」(マタイ6:33)
世の終わりと、わたしたちの主の再臨を、主に反対するものたちは恐れるでしょう。そして、悪を自ら進んで選ぶ者たちを主が報復されるとき、悪の権力と支配の犠牲者である主の子供たちは、動揺せず落ち着いていましょう。悪を行なう者たちは、遅かれ早かれ、必ずその報いを受けるのです。さあ、神を賛美しましょう。主は、わたしたちを困難の渦中においてお守りくださいます。この信頼を決して手放さず、主を永遠に讃美しましょう。
天のお父様、あなたと、あなたの加護の盾を選ぶようにと教えて下さり感謝いたします。聖霊様が、間近に迫った御子の再臨を喜ぶことができるようにしてくださいますように。イエス様のもっとも偉大なお名前において、アーメン。