その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。第二コリント 5:14-17

生きている私たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく

第二コリント 5:14-17

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。

5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

 

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

 

愛という言葉はよく利用されますが、その意味が理解されることは少ないです。あまりにもシンプルで自明なものだからです。イエス様の私たちの愛について言えば、それは実に人間の知性によってはとらえ難いものです。慎重に辛抱強く耳を傾けることで、この愛の神秘と、この愛への応答として私たちに課されている責任の重大さについて学ぶことができます。その愛のみが、私たちを永遠の死という有罪判決から救うことができたのです。私たちの主への応答としての愛は、私たちの日々の生活でいつも実行されなくてはなりません。

 

<生きている私たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく>

 

私たちは、親や兄弟や友人など、様々なところから愛を受けます。しかし、これらすべての愛以上に、神様から頂く愛について確信しなくてはなりません。それは、イエス様が人間となり体現された神の愛です。主が人間となり来てくださり、本来は私たちに下されるべきだった有罪判決をご自分の体にお受けになったのです。本来、あなたと私が有罪判決として身に受けるべき罰を、主が代わりにお受けになったのです。このことを、私たちは確信しなくてはなりません。

 

パウロは言います、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる。」と。では、どうして私たちは無感覚でいられるでしょうか?生かして頂いているのに、その愛に応答せずに、返答せずに、どうしていられるでしょうか?

 

 

一人の方がすべての人のために死んでくださった

聖書の立法によると、罪の判決は死です。自分がこれまで犯した数えきれない程の罪を想像してみてください。そして、それらに対する判決を。イエス様はその判決をご自分の身に引き受けてくださり、正義を確立されたのです。それが何を意味するのかといえば、「あなたが本来であれば死ぬべきでした。しかし、イエス様があなたに代わり、その判決を実行してくださった。だからあなたは死んだのです。現実には、あなたの有罪判決はイエス様の身に下されたのです。」

 

一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。

これが、立法が求めることでした。罪の判決は死だからです。

 

その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、

主が私たちの死をご自分の体にお受けになったのであるから、そのお礼に、わたしたちは主の命を受けとるのです。私たちに課されたことは、私たちの体に主の人生を生きることです。

 

 

パウロは別の個所で、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。) ピリピ 2:5」と述べています。もしイエス様が、あなたの罪を代わりにお受けにならず生き続けられたとしたら、主はこの地球で神の子としてお生きになったはずです。イエス様と同じ仕方で、私たちは人を愛し、生き、互いを許し、分け合い、模範となる人間として生きなくてはならないのです。

 

ですから、パウロは要請しているのです。「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるように。」

 

死は主を閉じ込めておくことができませんでした。主には罪が全くないからです。主は3日後に復活なさいました。神の霊が主を生き返らせたのです。そして、神の使いが墓の入り口の石を動かし開けたのです。ですから、私たちは、今からは、死から生き返った復活者として生きるのです。私たちを苦しめる恐に負けず、疑いを捨て、立ち上がる(復活する)こと。落胆や挫折から抜け出し立ち上がること。私たちを弱いものとするすべてのものに負けず起き上がること。私たちは希望を持たなくてはなりません。責務を果たさなくてはなりません。主に変わって生きること、自分の心と生に代えて主の心と生き様を生きること。主のために生きること。。。

 

 

天のお父様、私たちを駆り立てる愛について教えてくださり感謝致します。その愛はイエス様が人間となり体現してくださったものです。私たちは天のお父様、御子イエス様、そして聖霊様を敬います。聖霊様が、私たちに代わり死んでくださったイエス様に代わり生きることの責務について、この偉大な犠牲について私が理解できるようにお助けくださいますように。そして、この世界でイエス様の愛の証人として生きることができるよう、私を駆り立ててくださいますように。イエス様のもっとも偉大なお名前において、アーメン。