For the Son of Man came to seek and to save the lost. Luke 19:10

To seek and to save the lost

「実に人の子は、失われたものを探し、救うために来たのだ」。ルカ19:10

 

失われたものを探し出し救うために

 

 通常私たちはその場にいる人にしか気をかけません。職場でも家でも、目の前にいる人に気をかけ、不在の人のことを気をかけたりはしません。この世界のこのような動向とは逆に、イエス様は救済の対象となる人を探されます。失われた人を探し出すことが、主の救済が持つ本来の意です。救済とは、すでに主に属する人たちのケアではなく、まだ主の下に来ていない人たちのところへ行き、彼らを連れ帰ることです。

 ちょうど次のようなものです。100人の漁師がいました。99人は無事に浜へ戻ってきましたが、一人が戻ってきませんでした。救援部隊が捜索するのは、この一人の漁師です。

 同じように、神様も失われた人の心配をされています。「私は良き羊飼いだ」と主はおっしゃいました。良い羊飼いとはどのような羊飼いでしょうか?100頭の羊がいます。無事に戻ってきた99頭の羊を置いて、道に迷い戻ってくることができなかった、一頭の羊を探しに出るのです。なぜなら、その羊飼いは、その羊が迷子になってしまっていること、自分の下へ帰る道を知らないことをご存知だからです。その一頭の生存が心配で仕方がないのです。

 罪は私たちを神から引き離します。しかし、神は罪びとから遠い存在ではありません。主は、常に、失われた人の救済の使命に携わっていらっしゃるからです。

 イエス様がこの地上にいらした時、「罪人」に分類さ非難されている人びとがいました。ユダヤ教の指導者たちは、神の国にそのような人びとが受け入れられることはないと言っていました。しかし、イエス様は、今日の御言葉によって、そのような指導者たちを驚かしました。

「実に人の子は、失われたものを探し、救うために来たのだ」。(ルカ19:10)

 ザカイオスは、ユダヤの指導者たちにとっては罪人であり失われた人でした。彼の行いから指導者たちはそのように判断していました。しかしイエス様は、ファリサイ派やサドカイ派の人びとのようにザカイオスをご覧になりませんでした。主の心は慈悲深く、天の父が与えたいとお望みの永遠の命と救済をザカイオスも得ることができるようにと主はお考えになりました。

 そこで、イエス様が彼に「ザカイオスよ、私は今日、あなたの家に留まる(一緒に食事をしたい)」。とおっしゃると、ザカイオスの心は一瞬にして改心し平和が彼の家に訪れました。ザカイオスはその場で自分の人生を改めました。このように主は、失われた人をお探しになり、お救いになられる主です。

 私たちも自分は失われた存在だと感じているかもしれません。しかし、イエス様は、そのような私たちをこそ探し出してくださるのです。

 

 

天のお父様、私たちを探し出し救ってくださるこの特別な愛に感謝します。私たちは、自分の罪のゆえに失われた者となりました。どうか来て、私たちを探し出し救済してください。聖霊様がこのことを私たちに確信させてくださいますように。イエス様のもっとも偉大なお名前において、アーメン。